君の名は。SS 夏日影。至る未来。

暑中見舞いが残暑見舞いになり、気がつけば秋になっていたという例年のアレ①です。

 


目が覚めてまず感じたのは、喉の渇き。
連日の猛暑のせいか、大学を卒業し社会人一年目となる初めての夏のせいか、ここ最近は疲れ気味で、昨夜は早めに寝てしまった。
身体に感じるのは倦怠感。それでも二度寝しようと思わず、すぐにベッドから起き上がったのは、疲れ以上に胸を突くものがあったから。
「もうすこしだけ……か」
ポツリ呟いた言葉と共に手のひらを見つめる。拭った指先を濡らした雫は、思い出せない夢の残滓。
朝、目覚めると何故か泣いている。こういうことが、私には時々ある。
見ていた夢はいつも思い出せない。夢なのだから忘れてしまうのは当たり前のはずなのに。覚えていられなくて当然のはずなのに。それでも夢の中に置き忘れてしまった"何か"に私はこうして涙する。

冷蔵庫を開け、作り置きの麦茶へと手を伸ばす。冷凍室から二、三個氷を取り出すと、注いだ麦茶のグラスに一つずつ入れていく。夜明け前、暗く静かな一人暮らしの小さなキッチンにカランと涼やかな音が一瞬響いた。
何かを、誰かを探してる。
こんな想いに囚われて一体どれだけの月日が流れただろう。社会人になり、更に加速度を増したような日常に翻弄されながら、それでもこの想いだけは手放す気にはなれない。
「ふふっ」
不意に口許に浮かんだ笑みは、自身を励ますためか、それとも未だ捨てきれない何かに拘って、もがき続ける自身への嘲笑か。
麦茶を一気に飲み干せば、溶けて小さくなった氷が口の中に一つ。奥歯でかみ砕けば清涼感と共に胸に残る感傷を少し忘れられそうだった……

再びベッドに横になったものの、やっぱり寝付けないまま私はハリネズミの抱き枕を胸に抱え、今日一日どう過ごそう?なんて事をボーっとした頭で考えている。
短い夏の夜は既に明け、眩い日差しが厚手のカーテンの隙間から部屋に注がれている。確か予報では今日も三十度超えの真夏日。もうすぐ九月になるというのに、夏の太陽は未だに元気いっぱい。
仕事の疲れもある。今日は家でゆったり過ごしてもいいのかもしれない。このまま横になっていれば、また夢を見られるかもしれない。
ああ、それは嬉しいなぁ……
そう思いながら、ゆっくりと瞼を閉じる。だって夢の中なら、また……
「……起きよう」
一度閉じた瞼を開けると間髪入れずにベッドから下りた。何も考えないように、そのまま朝のルーティーンのように朝食の準備を始め、テレビを点ける。週末の朝のテレビ番組は平日のそれとは違うけど、それでも無音よりは遥かにマシで、流れてくる音声をBGM代わりに当たり前の日常に感覚を引き戻していく。

私の探しているものは夢の中にはない。もがきつづける日常の中にしか存在しないはず。それだけは何故か確信できた。だから、夢に逃げ込まず、私は今日一日を過ごそうと思った。
本当に、私は、何を、誰を……探しているのか。
「これじゃ二人にも心配されちゃう訳やよね」
呟いた瞬間、チンとトースターで食パンが焼き上がる音がした。


『三葉も一緒に行かない?』
そう言って旅行に誘ってくれた親友の電話を断ったのは先月のこと。
「なーに言っとるんよ!社会人になってなかなか一緒の時間取れんって言っとったやないの」
『でも、そうするとウチらなんか三葉置いてけぼりにしてるみたいやし……』
「旅先で二人のお邪魔する訳には参りませんので。それに私が行かなかったら泊まる部屋一つで済むやろ?そんなんテッシーに恨まれてまうわ。」
『な、な、な、何言っとるんよー!?三葉ー!!』
「サヤちん、声裏返っとるでー♪」
全く、私に気を遣うにも程がある。親友の優しさは心から嬉しい。だけど、私だって親友二人には幸せになってもらいたいのだ。
幼馴染から恋人に。二人で育んできた想いは身近で見続けてきた私が一番わかっている。だけど、同時に親友として二人が私の事を心配しているということも十分にわかってるつもりだ。
未だに何かを探し求めてる今の私では、きっと二人を心から安心させることはできない。それでも私の存在が二人の未来の枷になることだけは絶対にイヤだった。
「そんなに心配せんでも、休日一緒に買い物行く友達くらいちゃんとおるでね。こっちはこっちでのんびり過ごすで、二人は楽しんで来て。ね?」
そう言って親友を送り出す。長い付き合いだ。私の考えくらいお見通しだったのかもしれない。それでも『帰ってきたら一番にお土産持ってくでね!予定空けときない』って言ってくれたのは、サヤちんなりの私への信頼と気遣いだったんだろうな……

洗面所の鏡に向かい、髪型を整える。肩から少し伸びた髪。社会人になり、ハーフアップに変えた髪型にも随分見慣れてきた。
いつものように結ばれた組紐を鏡越しに確認すると小さく頷く。これがあれば探し物も見つかるような気がするから。
と、横に置いたスマフォから聞き慣れたと着信音。見れば、サヤちんとテッシーからのメッセージ。

テッシー:あっちついたら写真いっぱい送るからなー!!
サヤちん:三葉にも旅行気分味合わせてあげるよー♪

「まったく二人とも……」
そう呟きつつも私は感謝と嬉しさいっぱいに二人へ返信を打ち込んだ。

*   *   *

「はぁ……暑ぃ」
誰が聞いてる訳でもないのに、つい恨みがましい言葉が口をつく。八月も終わりに近づいてるとは言え、日傘のつゆ先から垣間見える日差しはあまりにも眩しく、そして歩道から湧き出るような真夏の熱はまるで東京一面を蒸し風呂にしているみたいで、自然と流れる額の汗をハンカチで拭った。
「こればっかりはいつまで経っても慣れないなぁ……」
上京してから早四年が経過した。最初の頃は毎日がお祭りみたいな東京での暮らしに心躍る日々だったけど、人間というものはどんな状況でも慣れていくものらしく、気づけば此処での生活は当たり前、もう今では普段の自分の居場所のように感じている。
それでも、毎年の夏の蒸し暑さだけはとても受け入れられそうにない。盆地というものは大概夏は暑くなりがちだったけど、まだ糸守の夏の方がずっとマシだった気がする。
とは言え、これ以上文句を言うだけ気力の無駄ということで、私は気の向くまま冷房の効いたお店へと順々に足を運んでいく。

まだまだ夏盛りと言えるけど、夏物の洋服はセールも始まり、秋物も衣類もチラホラ目について来た。
気になる商品をあれこれ眺めているとショップの店員さんから声がかかる。生活費となる預金残とクローゼットの中にある手持ちの洋服を頭の中で思い浮かべつつ、思い切って爽やかな色合いワンピースを一着購入する。
「私が探し続けているものじゃないはずだけど、どうしても気に入ってしまったんだから仕方ないよね」
手頃な価格で購入できたことに満足しつつ、次の店へ。特に目的もないまま、お店を巡り、カフェでパンケーキを食べ、また歩いて、そうして今、新宿御苑の東屋のベンチでくつろいでいる。
午後に入っても真夏の日差しはそのまま、それでも流れて来る風はほんの少しだけ爽やかな秋の気配を感じさせた。
「また秋が来るんやなぁ……」
何故か糸守の頃の方言で私は小さく呟いた。
夏が終わり、秋が来る。それは当たり前の自然の流れだというのに、また今年も成し遂げられなかった、そんな切ない感覚が私の中で大きく渦巻く。

誰かを、何かを探してる。
そういう想いに憑りつかれたのはきっとあの日から。
あの日、星が降った日。夢のような美しい情景と共に、私の中に刻まれた大切な想い。

あの忘れられない秋の一夜から始まった今に至る日々。私はずっとこの想いと共に過ごしてきたように思う。まるで私の半身のように。
目を閉じる。真夏の東京で今日もまた一人彷徨う私。
本当なら、と思う。
もうすこしだけ、と思う。
どんなものでも手に入りそうなこの東京で、それでも私にとってのたった"一つ"が見つからない。
目を開くと、そこには何もない、いつもと変わりのない自分の手のひらを見つめた。
「……わかんないよ」
思わず零れたその言葉に、ほんの少しだけ決意が揺らいでしまいそうになる。だから、もう一度歩き出せるように、今は少しだけ休ませて……
青々と生い茂る木々と、その先にあるビル群、青く広がる空と真白く大きな雲。夏の原色と言えるその情景も、今の私にはどこか色褪せて見えた。

*   *   *

耳をつんざくように鳴り響いていた蝉時雨の中、どこからかツクツクボウシの鳴き声が一際印象的に耳に届く。
西の空が朱に染まり、真っ白だった雲も鮮やかな茜色となって空を流れていく。
あれだけ光に溢れていた真夏の日中も今は夕闇が迫り、都会の高層ビルも行き交う人々も影絵のようにシルエットとなって浮かび上がっている。
「カタワレ時……か」
と或る歩道橋の上、手すりに手を乗せ、私は暮れゆく西の空を見つめていた。
カタワレ時、『彼は誰』が語源だっただろうか。
私が探しているものが"誰か"なのだとしたら、あなたは誰なんだろうね……?
暑かった夏の一日も間もなく終わる。今日も見つけることはできなかった。でも、大丈夫。これからも私はもがき続けるから。誰とも、何ともわからない探しものに届くように、私は強がりのように心の中で呟く。

チリン……

胸の奥で鈴の音が響いたような気がした。俯いていた顔を上げ、何気なしに横を見る。
歩道橋の上、視線の先には向こうへと歩いていく一組の男女。薄暗い夕暮れ時ではっきりとはわからないけど、背中越しでも仲睦まじい事が感じ取れた。
「あ……れ?」
不意に左目から涙が零れたことに気がついて、慌ててその雫を指で拭う。胸に沸く感情はまるで朝、目が覚めた時のようで、思わず私はその二人に声を掛けようとする。
と、しっかりと髪を結んでいたはずの組紐がハラリと解け、歩道橋の上へと落ちた……
「あ、組紐……」
しゃがんでそれを掴むと、高鳴っていた心臓の音が徐々に落ち着いていくのを感じた。

違う……私が探している人じゃない。

微かな期待が確かにありながら、それでも違うと言い切れる自分を信じ、私は立ち上がるとそのまま振り返らずに逆方向へと歩き出す。
不意に視界がぼやけて今度は右目から零れた涙が頬を伝う。組紐を握った右手の甲でそれを拭いながら、私は不思議とこう思えた。

――きっと未来で逢えるって

しっかりと前を向き、力強い足取りで家路につく。微笑みながら何気なく毛先に指で触れると、ふと、もう少し髪を長く伸ばしてみようかな、なんて思い立つ。
西の空へと振り向けば、光を残していた空は濃紺の内へと沈み、カタワレ時は終わりを告げていた。
季節は巡る。眩い季節から、少し切なさを纏う日々へ。濡れた頬を優しく撫でる風は、どこか秋の匂いがした……