君の名は。SS 夏日向。未だ道程。

暑中見舞いが残暑見舞いになり、気がつけば秋になっていたという例年のアレ②

目が覚めてまず感じたのは、柔らかな感触と甘い匂い。
理性が狂わされそうなその感覚に、そのまま虜になってしまいそうになるが、何とか意識は保つことができた。
週末の夜、いつ果てたかもわからない時間まで一緒に過ごし、こうして目覚めても、世界で一番愛しい人に抱かれている。
聞こえてくるのはスゥスゥと小さな寝息。彼女はまだ夢の世界に居るらしく、起こさないようにそっと距離を取ろうとしたが、まるで俺の行動に感づいたかのようにギュウと胸元へ抱き寄せられた。
うぅむ……これは彼女の愛情表現なのか、それとも彼女愛用のハリネズミのぬいぐるみのように、抱き枕か何かに勘違いされているのか?
そんな考えを巡らせつつも抵抗は示さぬまま。もうすこしだけ、とその柔らかな感覚に暫く身を委ねた。

夏の朝は早い。それでも今はまだ薄暗い部屋の片隅で、掛けがえのない人と肌を寄せ合っている。
漸く出逢えた彼女と共に迎える朝は、まだ慣れたとはとても言えないけど、初めての頃に比べれば多少は余裕が出てきただろうか?
とは言いつつも……
均衡していた欲情と安堵感が徐々に欲をはらんだ方に傾きつつあるのを感じ、名残惜しいながらも今度こそ絡んでいた白い細腕をゆっくりと引き離し、俺は静かに起き上がった。
見下ろすような視点でベッドを見れば、くの字で眠る安らかな寝顔。その表情にホッとしたのも束の間、暑さで互いに下着姿で寝てしまったせいか、めくれたタオルケットから垣間見えたブラに釘付けになる。
まあ、その何と言うか……
彼女と出逢い、付き合って、こうして共に過ごす時間が積み重なっていく中で、俺は一つ自覚したことがある。

……おっぱいが大好きなんだ、と。

悪いと思いつつ、個人的には一生のお付き合いにしたいと決意している彼女の胸を人差し指でツンとつつくと、これまた掛けがえのない存在感。
「いや、これ以上はヤバいよな……」
頭が覚醒していくのと同時に昨夜の色々が浮かんできて、彼女にタオルケットかけると、そそくさとベッドを降りるのであった。

「おはよぅ……瀧くん」
「おはよう、三葉」
普段はそれなりにしっかりとした雰囲気の年上彼女なのだが、朝はどうにも弱いらしく、ふにゃりとしたゆるーい表情で未だ思考も定まっていない様子。
軽く伸びをしながら、ふぁと小さく欠伸をする姿は可愛らしいが、自分がまだ下着姿なままなの、わかってんのかなぁ?とその様子を眺めていると、ボーっとした視線のまま自身を見下ろし、ハッ!?として、顔を真っ赤にしながらタオルケットを身体に巻き付ける。
うむ。ちょっと残念だが、気づいてくれたようだ。
「恥ずかしいんやから、そんなに見んでよ」
「恥ずかしがってる三葉も可愛いぞ」
「……あほぅ」
タオルケットで身体を隠しながら、ベッド下に落ちていたパジャマを手に取り、いそいそと身に着ける。
薄いピンク色を基調にした、いかにも涼しげな素材の上下。それを着た彼女がベッドに腰かけると短パンから伸びるスラリとした白い美脚が眩しい。
下着姿よりかえって照れくさいのはなんでだ?
急に凝視してるのが気恥しくなって、俺は首の後ろに手を当てながら取ってつけたように、「朝ごはん、俺が作ってもいい?」と言って、その場を立ち上がる。
「え?いいよ。私が作るよ」
「いや、いつも俺がお邪魔して夕飯とか作ってもらってるし、たまには、さ」
ジャンル違いはあるけど、お互い料理は得意分野で、調理することが苦にならないこともわかってる。
「うーん……じゃあ、お願いしようかな?」
「おう!」
「でも、その前に……」
急にモジモジし出すと、チョイチョイと俺は小さく手招きされる。なんだ?と思いながらベッドに座る彼女の隣に並ぶと、毛先に触れながら彼女から朝のおねだり。
「えっと……おはようのキス」
そう言うや此方に向いて目を瞑った三葉。勿論拒める訳はないのだけど、彼女の肩に手を置きながら俺は理性を見失わないようにするのに必死だった……
 
朝食の手作りホットケーキは三葉から星三つを賜った。後片付けも済み、部屋に一歩踏み入れようとして正面の窓の向こうに広がる真夏の世界を想像する。
手に持つスマフォに示された今日の予想最高気温は三十度以上。東京の夏は気温に加え、湿度も高いから快適には程遠い。
「なあ、三葉、今日も結構暑いみたいだぞ。大丈夫か?」
「瀧くんが疲れとるなら、私は無理にとは言わんけど」
洗面所から身だしなみを整えている彼女の澄んだ声が届く。
「いや、俺は大丈夫だけど、逆に三葉の方こそ大丈夫かなって」
部屋には入らず洗面所の方へと身体を向ければ、丁度黒髪をハーフアップにしてトレードマークとも言える組紐を結んでいた。
「まあ暑いのは大変やけど、でも、こんな日でも瀧くんと一緒に出掛けたら、それもまた思い出になるかなーなんて」
三葉は鏡を見ながら自身の髪型を確認すると、よし♪と頷く。
「でも、やっぱり暑いと疲れるし。瀧くん、無理そうなら言ってね」
「いや、無理なんてしてないよ。それにさ、俺、今度行く旅行もすっげー楽しみにしてるから」
「ふふっ、私も」
実は来月あたり、二人きりで一泊旅行を予定している。行き先はまだ決めかねているけど、その相談と準備で旅行会社を回ったり、買い物したりしようか、なんて話し合っていた。
でも、それは目的のうちの半分。
俺も同じ。どんなに暑い一日だとしても三葉と過ごす初めて季節はどんな情景になるのだろうと、そんな風に思うのだ。
君がいない世界。
君がいない季節。
それを乗り越えた"今"という時間。欠けていた世界が漸く満たされたみたいで、季節と共に全てが鮮やかに色を変えていく。
片割れともいうべき、君もまた同じ想いでいてくれたら嬉しいんだけど……
そんな事を考えながら、俺も外出する為に着替えを始めるのだった。

*   *   *

「三年前に、サヤちんとテッシーが草津行ったんやけど、やっぱり湯畑周辺を巡るのは楽しかったって言っとったよ」
眩い日差しから逃れるべく立ち寄ったチェーン系カフェ店。氷を砕いて作る夏の定番のアレを手にしながら、三葉は丸テーブルの上に広げた旅行パンフレットの一つを指さした。
「ただ、夏場の温泉はちょっと熱かったとも言っとったけど」
「でもまあ、俺達が行く時はもう少し涼しくなってるかもしれないしなー」
そして俺もまた自身で定番のホットのブラックコーヒーをすする。
「そもそも温泉を目当てにするか、軽井沢とか避暑地にするか、それとも観光地にするか……。二人で行く初めての旅行だからかな、結構悩んでしまうな」
「でも、瀧くんとこうして行き先考えるのも楽しいよ♪」
微笑みながら三葉はストローを口許へと運ぶ。どんなに暑かろうと彼女が楽しそうなら何よりだ。俺という存在が、彼女を笑顔にできているのだとすれば、こんなに嬉しい事はない。
まあ、そう思える俺自身もまた、彼女の存在に随分救われているんだけど。
「行き先か……。そういや、結局、この夏は海とかプールは行けなかったんだよな」
互いのスケジュールや天気、いや、そもそも行きたい理由は個人的欲望に因るものだったから、何となく誘いづらくて話題を避けていたのは事実か。
「……来年は一緒に行きたいね」
「そ、そうだな」
その素直な反応に、三葉の水着姿が見たかったなんて本音は心の奥に押し隠す。
「ねえ、瀧くん、次のお店なんやけど」
「おう、どこ行く?」
「来年の参考に水着でも見に行こ♪」
「うっ……」
「瀧くんもとっても楽しみにしとるみたいやし?」
ニヤニヤしてる彼女の表情を見て、全て見透かされてることを悟る。
ううむ、三葉が俺のことを理解してくれることは喜ぶべきなのかどうなのか……

それから水着売り場で俺の好みをリサーチされ、夏のセールで賑わうショップを巡り、二つまで絞ってどちらを買おうか悩んでいた三葉を後押しするカタチでワンピースを一着、俺がプレゼントしてあげた。それから今度の旅行に向けて小さなキャリーケースを一つ購入。
そんな感じで二人で気ままに一緒の時間を過ごした後、コンクリートジャングルから逃れるように緑が茂る新宿御苑へとやってきた。
徐々に夕暮れに近づきつつある時間とは言え、まだまだ気温は高く、深緑の葉が描く影の下を歩いていると随分涼やかに感じられた。柔らかい土の歩道の上、揺れる葉に合わせ木漏れ日が微かに揺らめいて見える。
「初めてのデートで来て以来だね」
「あの頃は、三葉との距離感がまだよくわからなかったんだよなぁ」
ほんの数か月前の出来事だというのに、もう随分昔のような気がする。出逢いは根拠が無くても"ぜったいこの人だ"って信じられたのに、それから先の関係は本当に少しずつ、一歩ずつ。
花舞う春の出逢いから、新緑の初夏へ、青葉を濡らす梅雨を越え、光溢れる夏へ。
君の名を知ったあの日から、俺は隣を歩く大切な人のことを少しは理解できるようになっただろうか……
「ねえ、瀧くん」
「なに、三葉」
「今日はありがとう」
「いや、俺だって楽しんでるし」
「ううん、そうやなくて……」
君の歩くペースはわかってる。話すテンポも噛み合って、ちょっとした会話の間も苦になんてならない。振り向けば、同じタイミングで此方を向いた君と視線が交差する。
「瀧くんと居るとね、今まで知ってたはずの風景も全然違って見えるの。何度も過ごしてきた東京の夏も、まるで初めてみたいで。本当に楽しいんよ」
口許に手を当て楽しそうに笑う三葉。
まったく、本当に……
俺も同じ。彼女が笑ってくれるだけでこんなにも世界が色づいて見える。俺はきっと君の笑顔に恋してる。もしかしたら出逢う前からずっとその笑顔を探し求めていたのかもしれない。
「じゃあ、暑いけど、もう少し歩いて夏を楽しむか!」
「うん!」
眩い季節から、寂しさ纏う季節に移り替わっても、四季折々の情景の中で君の笑顔と共にありたい。
心からそう願っていた……

*   *   *

暑く長い夏の一日もまもなく終わる。
歩道橋から眺める黄昏の空は、太陽の光が徐々に弱まっていくと共に、赤から濃紺へと色を変えていく。
光と闇が交差するような、まるで世界の境界が曖昧になりそうなこの時間にあっても、隣を歩く君の存在は変わらない。
「夕飯はどうしよっか?」
「今日は流石に疲れたし、いつものイタリアンレストランに行かないか?」
「ええね、賛成♪」
何気なく交わす楽しい会話も、当たり前のように。

チリン……

と、何処からか胸の奥底に鈴の音が微かに響いて、俺は立ち止まる。
何気なしに振り返ると、歩道橋の上、一人歩く女性の姿。

――君の名前……は?

何故かその女性(ひと)の後ろ姿から目が離せない。
寂しげで儚げで、崩れそうになりながら、それでも必死にもがくように。肩より少し長い黒髪の彼女は一歩ずつそれでも前へと進んでいく。
その姿が何故か三葉と重なる。"今"の彼女は満たされて、楽しく笑っているはずなのに、その女性と三葉の印象は全然違うはずなのに……

「……くん?瀧くんっ!?」
「え?」
呼び声にハッとして振り返る。目の前には大きな瞳で俺を見上げてる三葉の姿。不思議そうに小首を傾げると、どうしたの?と尋ねてくる。
なんでもないよ、と言おうとしたけど、言葉が出て来ない。
「なあ、三葉は……"今"楽しいか?」
代わりに零れた彼女への問いかけ。急な質問に三葉は目をぱちくりとし、それから微笑みながら大きく頷いた。
「うん。"今は"とっても楽しいよ」
そう言った彼女が愛しくて、同時に申し訳なくて思わず抱きしめてしまう。
「え!?な、なに?瀧くん、どうしたんよっ!?」
「ごめん……三葉。すこしだけ……頼む」
やや間があってから、うん、と小さな声で三葉は応えると、俺の背中に手を回してくれた。
その行為に俺はほんの少しだけ救われた気持ちになる。それは、さっき誰とも知らないあの女性を見て、こう思ってしまったから……

もっと早く君に出逢いたかった。
そうすれば、もっと沢山、君を笑顔にできたのに……と

彼女の温もりを感じながら、後悔にも似た感情に包まれた胸の奥。抱き締めた彼女の組紐を揺らす風は、どこか寂しい秋の匂いがした……